ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ (プスコフ公)

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ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ
Ярослав Владимирович
ルジェフ公
プスコフ公
イズボルスクを占領するヤロスロフ
在位 プスコフ公1214年1240年 - 1242年

死去 1245年?
配偶者 エヴフロシニヤ
子女 イヴァン
家名 リューリク家
父親 プスコフ公ウラジーミル・ムスチスラヴィチ
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ヤロスラフ・ウラジミロヴィチロシア語: Ярослав Владимирович、? - 1245年?)は、スモレンスク・ロスチスラフ家出身(ムスチスラフの甥、ウラジーミル(ru)の子)のルーシの公であり、後にリヴォニア帯剣騎士団と連携してルーシ諸公と戦った人物である。ルーシの公としてはルジェフ公プスコフ公の座にあった。

生涯[編集]

帝政ロシア期の歴史家ニコライ・カラムジンは、ヤロスラフに宛てた1231年ローマ教皇グレゴリウス9世の手紙から、ヤロスラフがカトリック教会への加盟を望んでいたことを指摘している。1233年、カトリック教会への共感のゆえに、プスコフから異動させられ、オデンペ(ru)[注 1][訳語疑問点]へ移った。伝説ではドイツ人の女性と再婚したという。また、武力によって、かつての領土の支配権の回復を試み、ドイツ人勢力(リヴォニア帯剣騎士団)側に立ってノヴゴロド公国に対する軍事行為に参加した。1234年イズボルスクを包囲(ru)するが、プスコフ軍に捕らわれ、ノヴゴロド公ヤロスラフに引き渡された。解放された後は再びリヴォニアへ向かい、アダジ付近を受領した[注 2][訳語疑問点]1240年にはドイツ人と共に再びイズボルスクを陥し、プスコフ軍を破った。ドイツ人はプスコフをも占領し、半年の間統治した。

1242年の、ノヴゴロド公国とリヴォニア騎士団とのチュド湖(ru)[注 3]での戦い(氷上の戦い(ru))の後、ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーの許可を得たヤロスラフはルーシに帰還し、トルジョクベジェツクを受領した。1245年、アレクサンドル・ネフスキーと共同で、リトアニア大公国の拡張に対抗する声明を発表した。また『リヴォニア年代記』によれば、ヤロスラフは1245年に、タルトゥの教会とプスコフの相続継承権の半分を放棄している。

妻子[編集]

妻はポロツク公ログヴォロドの娘・エヴフロシニヤ(エヴプラクシヤ)。唯一の子であるイヴァンはヴェリーキエ・ルーキ分領公となった[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「オデンペ」はロシア語: Оденпеの転写による。現エストニアOtepää。なお現ロシア語名はオテピャ(Отепя)。
  2. ^ 「アダジ」はロシア語: Адажиの転写による。現ラトビアĀdaži
  3. ^ ロシア語の場合、チュド湖とはロシア - エストニア国境の一連の湖のうち北部の湖を指す。

出典[編集]

  1. ^ Коган В. М., Домбровский-Шалагин В. И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — СПб.: «Паритет», 2004. — 688 с.

参考文献[編集]